野井浦

浦名 野井浦(のいうら)
神社名 爾佐加志能為神社
祭神 大己貴命
所在地 松江市島根町野井155

野井浦日御崎神社  
野井(のい)うらの 清(きよ)き潮(しお)を賎(しず)が身(み)に
              かくる願(ねがい)の かのううれしさ

 野井浦
トンド宮練

神社境内の石段を上がる辺りの左手に謎の手彫りの石段があります。神社の変遷を物語るその石段を眺めながら拝殿まで上がると、その脇の木に汐汲みの竹筒が吊り下げられています。野井では四十九日の忌明けに近くの海岸の七ヶ所で汐汲みをしてその汐水を神社に奉納する習慣によるものです。神社を降りるとすぐ目の前にコバルトブル‐の海が迫っています。降りてすぐの左右の狛犬をよく見ると、子供を足元に抱えているのも驚きです。

 野井のとんどは一月の第二日曜日と決められています。太鼓で拍子をとって大人も子供も交じって神輿を担ぎ、町内を練り歩きます。子供の健康を祈る獅子頭も勇気ある少年がかぶって見せています。宮練のメンバ‐と祭を準備する町内の大人たちの記念写真です。

 こうして一年の始まりを大人も子供も祝い、良い年となるよう祈ります。

野井浦
字名の「宮脇」を勘案すると古代から連綿と続いてきた由緒正しき神社と考えられる
野井浦

「爾佐加志能為神社」は『延喜式』内社、風土記社でもある。前出の瀬崎の「爾佐」神社と関係が深い神社であったと思われる、立地も近いことが想定される。「爾佐加志能為」の社名の「能為(のい)」が現地名「野井」のもとになっていることに気がつくと思う。地名と神社、そして字名の「宮脇」を勘案すると古代から連綿と続いてきた由緒正しき神社と考えられる。

 問題は日御碕神社の社名である。何故、『延喜式』内社が日御碕神社の名を欲したのであろうか。やはり近世においては天照大神を祭神とすることが重要だったのである。

『雲陽誌』ではその「日御碕太神宮」と並んで「加無利明神」の名が見えている。実は「爾佐加志能為神社」の通称は「神守大明神」であり、「加無利」が「神守」であることに気がつくのではなかろうか。

 複雑である。もともと江戸時代「日御碕神社」と「加無利明神(神守大明神・爾佐加志能為神社)」とは別神社で隣接して祀られていたが、明治に入り、『延喜式』重視の立場から「爾佐加志能為神社」の社名を前面にだし、日御碕神社は従に置かれ合祀されたのであろう。現・爾佐加志能為神社の社地の字が「宮脇」というのはかつての日御碕神社の「宮」の脇と理解できよう。

 慶応二年に野井を訪れた小村和四郎は「神守大明神」を参詣し、それを「爾佐加志能為神社」としている。その「神守大明神」の旧社地は現社地から南方僅かにある野井児童館前、字「神守灘様」であった。

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浦名 野井浦(のいうら)
神社名 爾佐加志能為神社
祭神 大己貴命
所在地 松江市島根町野井155

野井浦日御崎神社  
野井(のい)うらの 清(きよ)き潮(しお)を賎(しず)が身(み)に
              かくる願(ねがい)の かのううれしさ

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浦巡りガイド

神社境内の石段を上がる辺りの左手に謎の手彫りの石段があります。神社の変遷を物語るその石段を眺めながら拝殿まで上がると、その脇の木に汐汲みの竹筒が吊り下げられています。野井では四十九日の忌明けに近くの海岸の七ヶ所で汐汲みをしてその汐水を神社に奉納する習慣によるものです。神社を降りるとすぐ目の前にコバルトブル‐の海が迫っています。降りてすぐの左右の狛犬をよく見ると、子供を足元に抱えているのも驚きです。

 野井のとんどは一月の第二日曜日と決められています。太鼓で拍子をとって大人も子供も交じって神輿を担ぎ、町内を練り歩きます。子供の健康を祈る獅子頭も勇気ある少年がかぶって見せています。宮練のメンバ‐と祭を準備する町内の大人たちの記念写真です。

 こうして一年の始まりを大人も子供も祝い、良い年となるよう祈ります。

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 野井浦
トンド宮練
字名の「宮脇」を勘案すると古代から連綿と続いてきた由緒正しき神社と考えられる

「爾佐加志能為神社」は『延喜式』内社、風土記社でもある。前出の瀬崎の「爾佐」神社と関係が深い神社であったと思われる、立地も近いことが想定される。「爾佐加志能為」の社名の「能為(のい)」が現地名「野井」のもとになっていることに気がつくと思う。地名と神社、そして字名の「宮脇」を勘案すると古代から連綿と続いてきた由緒正しき神社と考えられる。

 問題は日御碕神社の社名である。何故、『延喜式』内社が日御碕神社の名を欲したのであろうか。やはり近世においては天照大神を祭神とすることが重要だったのである。

『雲陽誌』ではその「日御碕太神宮」と並んで「加無利明神」の名が見えている。実は「爾佐加志能為神社」の通称は「神守大明神」であり、「加無利」が「神守」であることに気がつくのではなかろうか。

 複雑である。もともと江戸時代「日御碕神社」と「加無利明神(神守大明神・爾佐加志能為神社)」とは別神社で隣接して祀られていたが、明治に入り、『延喜式』重視の立場から「爾佐加志能為神社」の社名を前面にだし、日御碕神社は従に置かれ合祀されたのであろう。現・爾佐加志能為神社の社地の字が「宮脇」というのはかつての日御碕神社の「宮」の脇と理解できよう。

 慶応二年に野井を訪れた小村和四郎は「神守大明神」を参詣し、それを「爾佐加志能為神社」としている。その「神守大明神」の旧社地は現社地から南方僅かにある野井児童館前、字「神守灘様」であった。